調査では、地表下2.4 m(標高2.1 m)の地点にて遺構と大量の遺物を含む包含層を確認しました。
検出した遺構は溝(SD)1条ですが、遺構検出面となる黒色粘質土(厚さ60㎝)からは弥生時代前期から古墳時代までに使用された土器や石器が大量に出土しました。SD1は幅35~70㎝、深さ6~10㎝の溝で、SD1からは土器片のほかに板材や木杭、種子(モモ)などが出土しました。出土遺物より、古墳時代初頭の溝と考えられます。SD1の全容や用途は不明ですが、調査地や近隣地域には該期の集落が存在するものと思われます。
また、SD1検出面では調査地全域から大量の土器が出土したが、溝以外には明確な遺構は検出されませんでした。これらの土器は溝と同時期のものであり、この中には畿内地方や出雲地方から持ち込まれたと思われる土器(搬入品)が含まれていました。これらは、当時の松山平野と他地域との交流が知れる貴重な資料です。
なお、前述した黒色粘質土上層からは古墳時代後期、6世紀後半に時期比定される土師器や須恵器が出土したほか、下層からは弥生時代前期末から中期後半の土器が数多く出土しています。
〔まとめ〕 今回の調査により、標高2m前後といった低地部に弥生時代から古墳時代集落の存在する可能性が高いことがわかりました。海岸線に近い地域での発掘調査例は極めて少なく、今後、松山平野における海岸沿いの集落様相や変遷を解明するうえで重要な遺跡です。
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