調査では、水田耕作に伴う足跡、掘立柱建物3棟、溝23条、土坑10基、土壙墓1基、井戸3基、柱穴152基、鍬跡を検出しました。
水田址は鎌倉時代から室町時代にかけての二時期に亘るもので、いずれの水田面も洪水砂に覆われていました。この水田址は調査地から南東方向の余戸柳井田遺跡1~3次調査においても検出されており、室町時代には周辺一帯が生産域として土地利用されたことが窺えます。
溝SD3の北端は調査区外で直角に屈曲し、溝SD2・4に繋がる様相を呈しており、形状や規模などから区画溝と考えられます。この溝は、余戸柳井田遺跡3次調査や同4次調査で検出した溝と繋がるものと考えられ、溝の規模は東西約77m、南北100m前後の長方形状に区画するものと考えられます。
掘立1と掘立2は溝SD3の外側に隣接する総
柱構造の建物址であり、位置関係や埋土、出土遺物などから同時期に並行する建物址です。建物の南には土壙墓があり、木棺外には副葬品の土師器皿4枚が並べられ、骨の残存状況から仰臥屈葬(ぎょうがくっそう)であることを確認しました。
井戸は2種類があり、素掘りの井戸と曲げ物の井戸です。素掘りの井戸は曲げ物の井戸と比べ、径が大きい特徴をもちます。
〔まとめ〕 調査地は平安時代後期から鎌倉時代には集落址として土地利用されており、特に地形のやや高い調査地南側から南東方向の余戸柳井田遺跡にかけては区画溝に囲まれた集落の中心地であったと考えられます。また、調査地はそれら居住域の北限付近と想定され、周辺は耕作地として生産活動が行われていたことが分かり、重信川下流域の沖積低地における集落構造を解明する上で貴重な資料となります。
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