公益財団法人 松山市文化・スポーツ振興財団

松山市考古館(詳細)

エントランスホールコーナー

エントランスホールでは、楽しみながら学習する郷土学習コーナーや気軽に土器などに触れていただく「土器にさわってみよう」コーナーなどを設け、一般の方々に広く公開しています。また展示室は2か所あり、通年で開館している常設展示室と、期間を限定して特別展等を開催する特別展示室があります。

郷土学習コーナー(土器当てクイズ)

松山平野から出土している土器を、時代ごとに数点ずつ壁面に並べて展示しています。来館者は手元に置かれた“かけら”を手がかりとして、壁面に展示された土器と同じ種類の土器をクイズ形式で探しだすことができます。

松山平野の遺跡(模型)

各時代のボタンを押すと、松山平野の立体模型上に遺跡の場所が点灯表示され、遺跡や古墳の分布がわかります。時代ごとに遺跡や遺物を紹介した配布物の「考古館さんぽ」はこちらにありますのでご自由にお持ち帰りください。

土器パズル

エントランスホールで人気の、バラバラになった土器のかけらを組み合わせて土器を完成させるパズル。簡単そうに見えますが、意外に難しい・・。
さあ、あなたは何分でできるかな?

「土器にさわってみよう」コーナー

ここは、本物の土器や瓦を実際に手にとって、見て、感じることができるコーナーです。 食べ物などを煮炊きするための土器や、亡くなった人を納めるための土器、屋根を飾るための瓦などがあります。

体験学習コーナー

楽しく歴史を学んでいただくため、縄文人から飛鳥・奈良時代までの衣装や、人物埴輪のキグルミを着たり、臼と杵や銅鐸の復元品に触れることで古代を身近に感じてもらえます。

常設展示室

「見る」「聞く」「触れる」「考える」を展示の基本コンセプトとし、「海を媒介とした文化交流の中継地点としての伊予文化の独自性と、そこに生きた人々の姿」を解明することを目的に展示を展開しています。
展示品は松山平野で出土した考古資料約500点です。

古照遺跡

古照遺跡は、1972(昭和47)年松山市南江戸町にある下水道中央処理場の建設工事中に『木組み遺構』が発見されたことにより、弥生時代の竪穴式住居跡が当時のままの状態で埋没しているかも知れないとして全国的に有名となった遺跡です。  その後、本格的な発掘調査が実施され、発見されていた『木組み遺構』が、古墳時代前期に機能した農業灌漑用の『堰(せき)』であることが分かり、現在までに合計3基の『堰』が発見されています。

松山市考古館では、全国的にも著名な古照遺跡を常設展示のメインとし、特に良好な状態でみつかった『第2堰』を復元し、ビデオ解説をまじえながら公開しています。

復元された高床(たかゆか)式建物

総合公園の第4駐車場から歩いて松山市考古館に向かう道の途中、広場の反対側に高床式の建物が復元されています。
これは、古照遺跡の堰に使用された木材の中に、高床式建物の建築部材が含まれていることがわかり、その資料をもとに復元したもので、立派な切妻造りの高床式建物として現代によみがえったものです。

はぎとり地層

松山市道後樋又において調査された、南海放送遺跡で採取した土層を展示しています。はぎとり地層は、地面に深く掘り込んだ穴の壁面を接着剤のような薬剤で固めて、はぎとって半永久的に保存したものです。縄文時代から現代に至るまでどのように土が堆積してきたのかを知ることができます。

発掘現場から直接はぎとってきた地層を実際に見ることで、遺跡が地面の中に埋まっていることが分かり、また『地層は人為的な改変が加えられていないとすれば、下層に堆積する土砂は上層に堆積する土砂よりも古い時代に堆積したものであること』を理解することができます。

伊予のあけぼの

松山市内の遺跡から出土している旧石器時代~縄文時代草創期の石器や、南江戸町の古照遺跡などで出土した縄文時代後期の土器を中心に展示しています。
松山市内では、明確に旧石器時代の遺構と呼べるものは発見されておりません。また、縄文時代の遺跡についてもまだまだ調査例が少なく、今後の調査に期待されます。

遺跡から出土した石器や、土器

今から約1万5千年以上前の人々は、石でいろいろな道具を作り、生活していました。
左からナイフ形石器角錐状石器有舌尖頭器

大陸文化の伝播

松山市太山寺町にある松山市立北中学校の開校に先立って発掘調査が実施され、そこで見つかった大渕遺跡(おおぶちいせき)ではじめて、縄文時代晩期に松山平野に初期稲作が導入されたことが確実になりました。このコーナーでは、大陸から伝わった稲作をテーマに、遺物の展示と資料の解説をおこなっています。

大渕遺跡からは、稲籾の圧痕が残る土器片や、 石庖丁、石鎌、 土偶、朝鮮半島出土の 彩文土器(さいもんどき)に類似した壷形土器が出土しています。

道後城北の弥生社会

松山平野の北東部に位置する 道後城北地域は、弥生時代中期から後期ころの拠点集落である文京遺跡を筆頭に、弥生時代の先進地域であったと考えられています。このコーナーでは、道後城北地域から発掘された遺物を中心に展示し、また、他地域との交流の結果持ち込まれた可能性の高い遺物(青銅器など)に関しての展示と解説を行っています。

道後城北地域の弥生土器を時期ごとに並べて展示することで、この地域の弥生土器がどのように変化していくのか一目でわかります。

道後城北地域の主な出土品

左上から時計回りに分銅形土製品石包丁青銅鏡

瀬戸内のまつり

瀬戸内海の沿岸地域で発達した『平形銅剣を用いた祭祀』をテーマに展示しています。このコーナーでは、松山平野で唯一、発掘調査によって確認されている祝谷六丁場遺跡の『平形銅剣埋納遺構』を移築復元しています。また、祝谷六丁場遺跡出土の平形銅剣と同じ成分比で製作した銅剣を展示しており、黄金色に輝く当時の美しさを現在に復元しています。

ボックス展示(1)

現在、干支「龍」に関する出土品を展示しています。松山市北久米町で出土された『大刀の柄頭(レプリカ)』、京都府太田南5号墳で出土された中国製の鏡『方格規矩四神鏡(復元品)』、松山市若草町の若草町遺跡出土の『壺形土器』、朝日谷2号墳出土の鏡『二禽二獣鏡』、福音小学校構内遺跡出土の『壺形土器』、天山2号墳出土の『壺形土器』が展示されています。

くらしの変遷

旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・古代におけるくらしの移り変わりを、11の項目(住む・食べる・着る・飾る・祈る・戦う・葬る・石・土・木・金属)に分けて、絵や写真などを用いて紹介しています。
実物の展示ではありませんが、その時代のイメージを代表するものを視覚的に学習することができます。

竪穴式住居での石器製作

弥生時代の典型的な竪穴式住居の内部を復元し、その中で石器をつくっている状況を実物大の人形を用いて表現しています。また、砥部川流域から運んできた緑色片岩をどのように石庖丁に加工していったのかなど、くわしく知ることができます。
竪穴式住居の中で、石器を製作する人物(人形)が実際に動きます。

さまざまな農工具

松山平野においても、弥生時代から古墳時代にかけて工具や農具が石器から鉄器へと変化していきます。
このコーナーでは市内の遺跡から発見された、弥生時代から古墳時代にかけての様々な農具や工具を復元し、種類別に並べて展示しています。
市内遺跡の発掘調査によって得られた実際の資料(石斧や鉄製鋤先など)を、全国の出土品をもとに推定復元した木の柄に装着した状態で展示しています。

史跡 葉佐池古墳

葉佐池古墳は1992(平成4)年6月、松山市北梅本町の丘陵地で、土地の開墾中に偶然に発見されました。全長55.8mの楕円形で、未盗掘の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)2基と、組み合わせ式木棺や棺材が出土しました。墳丘内には、5基の石室と馬の骨を埋めた施設が発見され、中でも2基の横穴式石室では、幸いにも盗掘や破壊を免れていたおかげで、木棺や副葬品が当時のままで発見されました。埋葬時の様子、儀式、儀礼などについて多くの情報を得ることができた点が大きく評価され、2011年(平成23年)2月7日、国の史跡として指定されました。

石室模型

発見された5つの石室のうち一番大きな2号石室(長さ5.1m、幅2.3m、高さ2.4m)を立体的に復元し、石室に入っていく体験をしていただけます。石の大きさや積み方が詳しく分かります。
また、発掘調査の様子や出土品などを紹介する解説モニターも設置しています。

古墳の副葬品

埴輪の世界

埴輪は、おもに古墳の墳丘上に立て並べる目的で焼かれた『素焼き』あるいは『須恵質の』土製品です。
このコーナーでは、市内の古墳から発見された古墳時代中期から後期の埴輪〔円筒埴輪(普通円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪)、形象埴輪(人物、 鶏形、盾形、蓋形埴輪など)〕を復元・展示しています。

埴輪は古墳の墳丘裾から割れた状態で出土することがほとんどですが、船ヶ谷向山古墳や畑寺6号墳、播磨塚天神山古墳などでは、その一部が墳丘上に並べられたままの状態で出土しています。このコーナーでは、特に船ヶ谷向山古墳での埴輪列検出状況を復元・展示しています。

さまざまな埴輪

埴輪は、円筒(えんとう)埴輪と形象(けいしょう)埴輪の2種類に区分されます。形象埴輪には人物、動物、建物など、さまざまな形のものがあり、当時の社会を知る上で貴重な資料になります。
左から鳥形埴輪人物埴輪円筒埴輪

ボックス展示(2)

合計3つの展示ケースに遺物を入れて展示しています。
現在、『大陸系土器』として、松山市小野周辺出土の陶質土器と、伝 天山出土の鈴杯(古墳時代)、『まつりの土器』として溝辺1号墳出土の装飾付須恵器(古墳時代後期)および、釜ノ口遺跡出土の器台(弥生時代後期)が展示されています。

運ばれた箱式石棺

松山平野には、板状の石材を組み合わせて作った古墳時代の箱式石棺が分布することが知られています。このコーナーでは、松山市北斎院町弁天山古墳出土の箱式石棺を移築復元しています。
箱式石棺は、その石材に中央構造線以南でしか得ることのできない緑色片岩を用いていることから、松山市の南に位置する砥部川の流域より石材が運搬されたのではないかと推定されています。

久米郡の役所と来住廃寺

来住台地上で確認され、現在も継続して学術調査が実施されている久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)および来住廃寺跡の調査成果を解説しています。展示遺物の中には、久米高畑遺跡第7次調査地出土の『久米評』刻書須恵器や、来住廃寺跡出土の軒丸瓦、軒平瓦などがあります。

毎年実施されている学術調査によって様々なことが分かってきています。最新の情報をお知りになりたい方は、毎年開催されている発掘調査速報展・報告会までお越しくださいますよう、よろしくお願いいたします。

久米官衙遺跡群と来住廃寺(国指定史跡)

久米官衙(かんが)遺跡群では、飛鳥~奈良時代の新旧の役所である「評衙(ひようが)」と「郡衙(ぐんが)」とが一つの台地上に展開することを確認できる、全国でも非常に珍しく、貴重な遺跡群です。
来住廃寺は 久米氏の氏寺(うじでら)とも言われる白鳳(はくほう)期の古代寺院跡です。近年の調査では、いままで塔(とう)の基壇(きだん)とされていた場所が金堂(こんどう)跡であったなど、新たな発見で注目されています。
左から時計回りに、線刻須恵器・来住廃寺の瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦複弁六葉蓮華文軒丸瓦単弁十葉蓮華文軒丸瓦)。

海に開く松山

松山市は、海上交通に適した瀬戸内海に面しています。このコーナーでは、海上交通によってもたらされた各種遺物の紹介をおこない、瀬戸内海の恵みを受けて発展した松山の歴史を振り返ります。松山市は、これからも瀬戸内海の恵みを受けて大いに発展していくことでしょう。