筋違S遺跡の調査について

投稿者| doguu in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す
筋違S遺跡の調査について

 調査地は、伊予鉄道福音寺駅より北方へ約110mの地点に位置し、標高29.2mに立地します。周辺の遺跡には、福音寺遺跡竹ノ下地区、福音小学校構内遺跡、筋違すじかい遺跡、乃万の裏遺跡、北久米常堰遺跡、北久米浄蓮寺遺跡など弥生時代から中世にかけての集落遺跡が多数分布している地域です。調査は、平成30年7月2日から同年7月30日までの一ヶ月間、調査面積約149㎡を行いました。調査の結果、掘立柱建物址2棟(掘立1・2)、土坑3基、柱穴41基を検出しました。
 掘立1は、全容は不明ですが、東西3間、南北2間までを検出しました。おそらく南北方向も3間と考えられ、3間×3間の正方形に近い柱穴配置をしていると考えられます。
 掘立2は、東西3間、南北1間の長方形の柱穴配置をしていました。

 

 この2棟の掘立柱建物址には、同じ場所で重なって検出されたことにより、建物の利用期間には時期差があるものと考えられます。建物の時期や性格などについては現在整理作業を行っています。

道後今市遺跡16・17次調査

投稿者| kidai in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 道後今市遺跡16・17次調査は、県民文化会館の東側のマンション建設地で平成29年9月~12月にかけて調査を行いました。

道後今市遺跡16次調査

 調査区を調査地北部西側、また調査地北東部を東西と中央を南北とL字状に調査区を設定し、それぞれ1 区、2 区と調査区名称を割り当てました。

道後今市遺跡16位置図

道後今市遺跡16次調査位置図

 この調査では、主に中世の遺構を確認しました。そのほか弥生時代~古墳時代遺構は若干数ですが確認できました。遺構は、溝4条、土坑7基、柱穴86 基でした。また遺物は弥生土器、土師器、瓦器が出土しました。

 遺構の大半は中世の遺構であり、周辺に存在する中世集落が本調査地にも広がることがわかりました。道後今市遺跡16次調査1 区では調査地の北西に当たるところで多くの土坑や柱穴、溝が検出されたことから、中世集落の存在は調査地北部の西側にその広がりがあり、広がりは調査区南部に向かって希薄になっていくことがわかりました。

道後今市遺跡17次調査

 調査からは、弥生時代~戦国時代の遺構・遺物が出土しました。その中で弥生時代の土器溜まり・弥生時代~古墳時代の溝・戦国時代のお墓を見てもらいます。

弥生時代から古墳時代の溝

南西~北西(左下から右上)の方向に11条の溝が見つかりました。

弥生時代の土器溜まり

弥生時代中期後半~後期前半(約2000年前)に川岸の窪地に弥生土器を多量に廃棄した土器溜まりが2カ所で見つかりました。

戦国時代のお墓

戦国時代(約400年前ごろ)のお墓から、頭蓋骨と副葬品の土師器の坏2点、皿1点が見つかり坏の1点は中央部に、半分に割り重ねた状態で折り曲げた足の膝付近の上部で見つかりました。


「掘ったぞな 松山2018」

会 期

平成30年7月14日(土)→9月2日(日)

会 場 松山市考古館 特別展示室
開館 時間  9:00~17:00 (入館は16:30まで)
休館日 月曜日 〔7月16日(月・祝)を除く〕 ・ 7月17日㈫
観覧料 無料
概 要

 平成29年度に松山市内で発掘調査した遺跡やその出土品、平成29年度に刊行した調査報告書に掲載した考古資料などを展示します。
<主な展示品>
 ・松山城三之丸跡20次調査出土の陶磁器
 ・船ヶ谷遺跡5次調査出土の耳飾り

筋違Q遺跡の地鎮遺構について

投稿者| kidai in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

昨年度、刊行した報告書「筋違M遺跡・筋違Q遺跡」の中から地鎮遺構じちんいこうを紹介します。地鎮遺構は地中に穴を掘り、土器をおさめ「マツリ」をした跡です。

この写真は、筋違Q遺跡の地鎮遺構の出土状況です。土師器の皿や坏が重なり合って20個体以上出土しました。
この写真は、筋違Q遺跡の地鎮遺構から出土した鎌倉時代の土師器の皿です。

 

現在の地鎮は、地中にものを埋めるのではなく、地上にて建物を新築する際に地神に、工事の安全を祈願する「地鎮祭」が広く行われています。

出土した遺物は、現在行っている「掘ったぞな 松山2018」で展示しておりますので、ぜひご覧ください。

「掘ったぞな 松山2018」

会 期

平成30年7月14日(土)→9月2日(日)

会 場 松山市考古館 特別展示室
開館 時間  9:00~17:00 (入館は16:30まで)
休館日 月曜日 〔7月16日(月・祝)を除く〕 ・ 7月17日㈫
観覧料 無料
概 要

 平成29年度に松山市内で発掘調査した遺跡やその出土品、平成29年度に刊行した調査報告書に掲載した考古資料などを展示します。
<主な展示品>
 ・松山城三之丸跡20次調査出土の陶磁器
 ・船ヶ谷遺跡5次調査出土の耳飾り


「掘ったぞな松山2018」報告会1

投稿者| hajiki in 出土物整理, 展示会, 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す
 『掘ったぞな松山2018』開催中。

 

「掘ったぞな松山2018」の第1回目の報告会を7月28日(土)13:30~15:30の間で行ないます。 今回は平成29年度に調査をした「祝谷大地ケ田遺跡8次調査」、「鶴塚古墳」の発掘成果について調査担当者が報告をします。暑い中ではございますが、無理しない程度で参加をお願いいたします。以下、報告する遺跡の紹介です。


祝谷大地ケ田遺跡では、祝谷11号墳や弥生時代の土坑などが見つかっています。祝谷11号墳は2基の横穴式石室が見つかりました。2基とも後世の開発により壊されていましたが、土器や鉄器などの副葬品が出土しています。

調査前の大地ケ田遺跡8次調査地(西より)

同じく11号墳の調査風景です(北より)。内の土取りに掃除機が活躍しています。

祝谷11号墳 1号石室調査風景(南より)。

調査地全景(西より)。手前が1号石室。左上が2号石室。

 

 


鶴塚古墳は全長42.5mの周溝を伴う前方後円墳です。埋葬施設は後世の開発のためすでに失われていました。周溝の一部の調査では埴輪や須恵器などが出土しています。埴輪の中には、松山市で出土例の少ない石見型盾形埴輪と呼ばれる埴輪片が出土しています。このほか、後円部で見つかった弥生時代の包含層からは、弥生時代中期後半頃の土器がたくさん出土しています。

鶴塚古墳(上空より)。当時の人たちでは見れないと思われるポジションです。前方後円墳、この形を誰に見せたかったんでしょうね。

石見型盾形埴輪です。

 

 

 

「掘ったぞな松山2018」始まりました。

投稿者| hajiki in 出土物整理, 展示会, 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す
                                                      『掘ったぞな松山2018』の展示が7月14日(土)より開幕

 

開催期間 平成30年7月14日(土)~同年9月2日(日)

報告会1 平成30年7月28日(土)13:30~15:30 

「祝谷大地ケ田遺跡8次調査の発掘調査成果について」

「新たに確認された前方後円墳『鶴塚古墳』の発掘調査成果について」

報告会2 平成30年8月25日(土)13:30~15:30 

「別府遺跡3次調査の発掘調査成果について」

「松山城三之丸跡20次調査の発掘調査成果について」

 こんにちは、平成30年度の「掘ったぞな松山2018」の展示が7月14日土曜日より始まりました。昨年度調査を行った遺跡や報告書を刊行した遺跡の出土品を展示しています。縄文時代から江戸時代までのいろいろな遺物や松山平野では珍しいものも展示していますので是非見に来てくださいね。お待ちしていま~す。

展示準備風景です。まずは写真パネルを設置します。

出土品の位置やキャプションの置き場所を考えながら配置していきます。別府遺跡3次調査の出土品です。

準備完了です。入口付近の様子です。

写真、解説パネル、出土品の位置などを見やすく配置したつもりです(^^。

これは私が調査を行った船ケ谷遺跡5次調査で見つかった古墳からの出土品です。

船ケ谷遺跡5次調査で出土した弥生時代後期の壺棺です。壺棺1から出土した銅鏃も展示してます。


 

「掘ったぞな 松山2018」

会 期

平成30年7月14日(土)→9月2日(日)

会 場 松山市考古館 特別展示室
開館 時間 9:00~17:00 (入館は16:30まで)
休館日 月曜日〔7月16日(月・祝)を除く〕 ・ 7月17日㈫
観覧料 無料
概 要

 平成29年度に松山市内で発掘調査した遺跡やその出土品、平成29年度に刊行した調査報告書に掲載した考古資料などを展示します。
<主な展示品>
 ・松山城三之丸跡20次調査出土の陶磁器
 ・船ヶ谷遺跡5次調査出土の耳飾り

 

掘ったぞな松山2018の準備作業②

投稿者| hajiki in 出土物整理, 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す
                                                       掘ったぞな松山2018準備作業        

 こんにちは、還暦がちらついてきたtakatsukiです。平成30年度の「掘ったぞな松山2018」(7月14日(土)より開催予定)の展示に向けて準備作業を行っています。この作業を担当したのは3年前の一回ポッキリ。忙しかったのは覚えてますが・・何をやったのか忘れています。写真は展示に向けたパンフレットや展示パネル解説文などの作成風景です。わかりやすい展示解説を心掛けて制作しています。が、この「わかりやすい」が一番難しい(・・;) いろいろあって・・・これに時間がかかるんですよ。しかも、パソコンとにらめっこしながら作ってるので目も辛いんです。でも、担当者が苦しんでいたら楽しい展示にはならないので、考古館の学芸さんや整理員さんと一緒に楽しみながらやらせていただきます 。

『掘ったぞな松山2018』は7月14日(土)から開催予定です。

画面とにらめっこしながらパンフレット作ってます。

本展示に向けて展示遺物の配置を予定しときます。

 遺物展示のセンスがありませんので考古館の学芸員さん、整理員さんの意見に従がいます。

こちらは、船ケ谷遺跡5次調査の三ツ石古墳3号墳の横穴式石室の副葬品です。須恵器がたくさんあります。

 

 

掘ったぞな松山2018の準備作業①

投稿者| hajiki in 出土物整理, 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す
                                                       掘ったぞな松山2018準備作業        

 こんにちはtakatsukiです。平成30年度の「掘ったぞな松山2018」(7月14日(土)より開催予定)の展示に向けて準備作業を行っています。写真は道後今市遺跡17次調査や鶴塚古墳で出土した弥生土器の復元作業の様子です。展示に向けて頑張って作業をしていただいてます。ここで立派に復元されたものが展示ケースに並ぶ予定です。

『掘ったぞな松山2018』は7月14日(土)から開催予定です。

只今、土器の復元作業中!

鶴塚古墳の後円部から前方部の一部にかけて弥生時代の遺物包含層が残っていました。写真は包含層から出土した土器です。綺麗に復元されてます!右側の土器は吉備地方の土器です。松山平野での出土は珍しいんです。

こちらも鶴塚古墳で見つかった弥生時代の土器です。鶴塚古墳といいながら弥生時代中期後半~前期初頭の立派な弥生土器がたくさん出土してます(´・ω・`)

こちらは道後今市遺跡17次調査の土器溜まり遺構から出土した壺や甕などの弥生土器です。鶴塚古墳で出土した土器と形がよく似てます。時期がほぼ一緒だから(^^♪

 

 

鶴塚古墳

投稿者| hajiki in 出土物整理, 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す
                                                       鶴塚古墳         

調査前の「鶴塚」 (南より)

後円部調査状況(南西より)

後円部土層堆積状況(西より)ほとんどが現代の堆積層です。一番下のほうの黒い土が弥生時代の包含層です。

調査区全景(北上空より)今年も見つかりました前方後円墳。黒い部分は弥生時代の包含層です。

北側くびれ部の周溝から出土した「石見型盾形埴輪」。松山で3例目らしい。小片で残念。

中国地方北部の弥生中期後半の土器です。注口付の脚付鉢というらしい。松山市ではこんなのありません。このほかの土器も展示予定なので見に来てくださいね。

 こんにちはtakatsukiです。平成30年の2月~3月の間に平井町にある「鶴塚」と呼ばれる塚の調査を行いました。この塚は東西20m、南北16mの範囲で円丘上の高まりをもち、周囲の水田より1.8m~2.5m高くなっていました。調査によって塚の周囲を巡る溝が見つかり、溝の形状から全長42mを測る前方後円墳であることを確認しました。ただし、埋葬施設は過去の開発により失われていました。周溝の調査は、北側のくびれ部と前方部で部分的に行い、土師器・須恵器・埴輪が出土しました。埴輪には「石見型盾形埴輪」と呼ばれる松山市では3例目となる珍しい埴輪が出土しています。そのほか、後円部で見つかった弥生時代の包含層からは、中国地方北部の土器が出土しています。

出土品の一部は、7月14日(土)から開催予定の『掘ったぞな松山2018』に展示します。

情報館の展示2

投稿者| kidai in 出土物整理, 発掘情報展 | コメントを残す

祝谷9号墳葺石剥ぎ取り

前方後方墳(祝谷9号墳)の周溝しゅうこうには付けてあった葺石ふきいしです。

四国で初めての出土です。

斎院烏山遺跡2次調査壺棺剥ぎ取り

斎院さや烏山からすやま遺跡2次の調査現場から出土した状態を切り取って持ち帰っています。

展示ケースの中ではなく近くで見れる展示です。

ぜひ情報館にお越しいただいて、展示をご覧ください。

なぜ松山で“大分県姫島産黒曜石”が発掘されるのか?

投稿者| magatama in 出土物整理, 発掘調査・試掘調査 | なぜ松山で“大分県姫島産黒曜石”が発掘されるのか? はコメントを受け付けていません

黒曜石とは、一般的に、酸性の火山岩に伴う黒~暗色系の火山ガラスのことです。割れ口が鋭いことから、旧石器時代~弥生時代には打製石器の材料のひとつとして重宝されていました。ところが、松山の遺跡から発掘される黒曜石には透明度の低いものを含むケースがあります。この透明度の低い黒曜石は、瀬戸内海の西端、大分県国東半島沖の姫島で産出する火山ガラスです。原石の断面が特徴的な乳白~淡黒灰色で、その色味から他地域産の黒曜石とは容易に違うことがわかります。

大渕遺跡から発掘された姫島産黒曜石の一部

これまで松山からは23遺跡から100点の姫島産黒曜石が発掘されています。この100点を整理・分析すると、以下の興味深いことに気付きました。まず、松山では、姫島産黒曜石が初めて現れるのが縄文時代早期にさかのぼることです。今からおよそ10,000年程度前には、海を介して、姫島産黒曜石が松山へ運ばれてきました。海上移動には、おそらく長さ7~8mの丸木舟が使用されたと推定され(日本列島における縄文時代の丸木舟の発掘例を参考にすると)、松山で発掘された姫島産黒曜石は、交易による物々交換品のひとつと評価できます。縄文時代早期の人々は、打製石鏃(弓矢の矢尻)や刃器の一部にこの石材を利用していたのです。

松山では、縄文時代晩期(2遺跡46点)と弥生時代中期(5遺跡34点)の遺跡から多くの姫島産黒曜石が発掘されています。現在の松山市立北中学校の建設に伴って発掘された大渕遺跡からは実に40点もの姫島産黒曜石(晩期後半)が発掘されています。大渕からは姫島産黒曜石の石核(剥片を取るための石器素材)・剥片(石核から割り取った薄い素材)・砕片(割り取る際に出た石屑)・石鏃・石錐(孔をあけるためのきり)・刃器が発掘されていることから、遺跡一帯で姫島産黒曜石を用いた石器製作がおこなわれていた可能性は高いです。一緒に発見された土器の特徴から、これが縄文時代晩期後半の時期であることがわかりました。この段階は、瀬戸内へ水稲耕作(いわゆるコメ作り)に伴う技術が伝播し始める時期に該当します。大渕遺跡からは、モミ痕が付いた土器片、稲穂を摘み取る石庖丁や石鎌が発見され、韓国の土器によく似た特徴を持つ壺も発見されています。大渕遺跡における多くの姫島産黒曜石の発見は、水稲耕作に伴う技術伝播の過程で大分県国東半島沿岸を拠点とした海人によって運ばれた石材である可能性が高いと考えられます。

弥生時代では、祝谷丘陵に展開した祝谷六丁場遺跡と祝谷畑中遺跡からあわせて31点もの姫島産黒曜石(ともに中期中葉)が発掘されています。このふたつの遺跡からも石核・剥片・砕片・石鏃・刃器が発掘されていることから、丘陵に建てられた竪穴住居内で姫島産黒曜石を用いた石器製作がおこなわれていた可能性は高いです。石核や剥片をよく見ると風化した自然面が認められ、その形や角度から、運ばれてきた姫島産黒曜石は握り拳大程度の自然礫(=原石)のものが少数であったと推定されます。この祝谷丘陵は眼下に道後城北地区を一望できるロケーションに立地するという地形的な利点があり、さらに緑色片岩という在地石材を多用した磨製石器を数多く製作した遺跡が展開することで知られています。集落を維持させるためには、他地域との交流を通じて先進的な文化情報や文物の獲得も必要不可欠だったと推測されます。祝谷丘陵で数多くの姫島産黒曜石が発見されたことは、国東半島沿岸を拠点とした海人が松山と交流する過程でもたらした石器石材と理解することができるのではないでしょうか。

束本遺跡から発掘された破鏡

松山では姫島産黒曜石が最後に発掘される時期は、弥生時代後期後葉です。わずか2遺跡2点(石鏃・剥片)の発掘に留まりますが、この2点は束本と小坂の集落遺跡から発掘されています。注目されるのはこの二つの集落から、弥生時代後期後葉~末にかけて青銅鏡の一部分(破鏡)が発掘されていた事実です。当時、青銅鏡は社会的立場を表すアイテムとして、重要視されていました。たとえ青銅鏡の一部分(破鏡)であっても、社会的ステイタスを誇示するものとして尊ばれていたのです。束本や小坂の集落遺跡からは鉄器やガラス小玉といった先進文物をはじめ、小鍛冶と思われる生産行為の痕跡もうかがえます。破鏡やその他の先進文物などを所有できた束本や小坂の集落は、この時期、松山の他の集落よりも相対的に上位にランク付けられると考えられます。特に松山では青銅鏡の破鏡を手に入れるためには、北部九州や東北部九州とのネットワークが必要不可欠であり、このネットワークを通じて松山で手に入れることができたと推定されます。束本や小坂に有力な集落が出現する背景には、西瀬戸内の海上交通を巧みに利用した海人との交流が考えられます。また、姫島産黒曜石を手に入れるためには、国東半島沿岸を拠点とする海人との交流なくしては実現できなかったと想定されます。

このように、親指の爪ほどの小さな姫島産黒曜石の剥片であっても、松山平野という単位で時代を通じて集成し、整理と分析をおこなうことで、「なぜ松山でこの石材が発掘されるのか」という疑問に対して紐解くヒントを見出すことが可能になるのです。瀬戸内海の四国北岸域西端に位置するという松山の地理的特性は、海人集団との交流を促進させるひとつの契機にもなったのかもしれません。