黒曜石とは、一般的に、酸性の火山岩に伴う黒~暗色系の火山ガラスのことです。割れ口が鋭いことから、旧石器時代~弥生時代には打製石器の材料のひとつとして重宝されていました。ところが、松山の遺跡から発掘される黒曜石には透明度の低いものを含むケースがあります。この透明度の低い黒曜石は、瀬戸内海の西端、大分県国東半島沖の姫島で産出する火山ガラスです。原石の断面が特徴的な乳白~淡黒灰色で、その色味から他地域産の黒曜石とは容易に違うことがわかります。
大渕遺跡から発掘された姫島産黒曜石の一部
これまで松山からは23遺跡から100点の姫島産黒曜石が発掘されています。この100点を整理・分析すると、以下の興味深いことに気付きました。まず、松山では、姫島産黒曜石が初めて現れるのが縄文時代早期にさかのぼることです。今からおよそ10,000年程度前には、海を介して、姫島産黒曜石が松山へ運ばれてきました。海上移動には、おそらく長さ7~8mの丸木舟が使用されたと推定され(日本列島における縄文時代の丸木舟の発掘例を参考にすると)、松山で発掘された姫島産黒曜石は、交易による物々交換品のひとつと評価できます。縄文時代早期の人々は、打製石鏃(弓矢の矢尻)や刃器の一部にこの石材を利用していたのです。
松山では、縄文時代晩期(2遺跡46点)と弥生時代中期(5遺跡34点)の遺跡から多くの姫島産黒曜石が発掘されています。現在の松山市立北中学校の建設に伴って発掘された大渕遺跡からは実に40点もの姫島産黒曜石(晩期後半)が発掘されています。大渕からは姫島産黒曜石の石核(剥片を取るための石器素材)・剥片(石核から割り取った薄い素材)・砕片(割り取る際に出た石屑)・石鏃・石錐(孔をあけるためのきり)・刃器が発掘されていることから、遺跡一帯で姫島産黒曜石を用いた石器製作がおこなわれていた可能性は高いです。一緒に発見された土器の特徴から、これが縄文時代晩期後半の時期であることがわかりました。この段階は、瀬戸内へ水稲耕作(いわゆるコメ作り)に伴う技術が伝播し始める時期に該当します。大渕遺跡からは、モミ痕が付いた土器片、稲穂を摘み取る石庖丁や石鎌が発見され、韓国の土器によく似た特徴を持つ壺も発見されています。大渕遺跡における多くの姫島産黒曜石の発見は、水稲耕作に伴う技術伝播の過程で大分県国東半島沿岸を拠点とした海人によって運ばれた石材である可能性が高いと考えられます。
弥生時代では、祝谷丘陵に展開した祝谷六丁場遺跡と祝谷畑中遺跡からあわせて31点もの姫島産黒曜石(ともに中期中葉)が発掘されています。このふたつの遺跡からも石核・剥片・砕片・石鏃・刃器が発掘されていることから、丘陵に建てられた竪穴住居内で姫島産黒曜石を用いた石器製作がおこなわれていた可能性は高いです。石核や剥片をよく見ると風化した自然面が認められ、その形や角度から、運ばれてきた姫島産黒曜石は握り拳大程度の自然礫(=原石)のものが少数であったと推定されます。この祝谷丘陵は眼下に道後城北地区を一望できるロケーションに立地するという地形的な利点があり、さらに緑色片岩という在地石材を多用した磨製石器を数多く製作した遺跡が展開することで知られています。集落を維持させるためには、他地域との交流を通じて先進的な文化情報や文物の獲得も必要不可欠だったと推測されます。祝谷丘陵で数多くの姫島産黒曜石が発見されたことは、国東半島沿岸を拠点とした海人が松山と交流する過程でもたらした石器石材と理解することができるのではないでしょうか。
束本遺跡から発掘された破鏡
松山では姫島産黒曜石が最後に発掘される時期は、弥生時代後期後葉です。わずか2遺跡2点(石鏃・剥片)の発掘に留まりますが、この2点は束本と小坂の集落遺跡から発掘されています。注目されるのはこの二つの集落から、弥生時代後期後葉~末にかけて青銅鏡の一部分(破鏡)が発掘されていた事実です。当時、青銅鏡は社会的立場を表すアイテムとして、重要視されていました。たとえ青銅鏡の一部分(破鏡)であっても、社会的ステイタスを誇示するものとして尊ばれていたのです。束本や小坂の集落遺跡からは鉄器やガラス小玉といった先進文物をはじめ、小鍛冶と思われる生産行為の痕跡もうかがえます。破鏡やその他の先進文物などを所有できた束本や小坂の集落は、この時期、松山の他の集落よりも相対的に上位にランク付けられると考えられます。特に松山では青銅鏡の破鏡を手に入れるためには、北部九州や東北部九州とのネットワークが必要不可欠であり、このネットワークを通じて松山で手に入れることができたと推定されます。束本や小坂に有力な集落が出現する背景には、西瀬戸内の海上交通を巧みに利用した海人との交流が考えられます。また、姫島産黒曜石を手に入れるためには、国東半島沿岸を拠点とする海人との交流なくしては実現できなかったと想定されます。
このように、親指の爪ほどの小さな姫島産黒曜石の剥片であっても、松山平野という単位で時代を通じて集成し、整理と分析をおこなうことで、「なぜ松山でこの石材が発掘されるのか」という疑問に対して紐解くヒントを見出すことが可能になるのです。瀬戸内海の四国北岸域西端に位置するという松山の地理的特性は、海人集団との交流を促進させるひとつの契機にもなったのかもしれません。