備前焼のこと

投稿者: sekifu in 未分類 | コメントを残す

 2回にわたって天目茶碗について書きましたが、今回は同じ松末栄松遺跡から出土した備前焼(びぜんやき)について紹介します。

 出土した備前焼は甕と擂鉢ですが、今のところ破片ばかりで、全体の形が分かるものはありません。これから復元作業を進めていくと形の分かるものが出てくるかもしれません。

 備前焼は現在の岡山県備前市周辺で生産される炻器(せっき)です。

 炻器とは陶磁器の仲間に含まれますが、陶器と磁器の中間的な性質を持っています。温度は1100~1250℃で焼きますが、土に鉄分が多く含まれるため褐色の色合いになり、「焼き締め」とも呼ばれる、硬い焼物になります。信楽焼(滋賀県)や常滑焼(愛知県)、大谷焼(徳島県)などもこれにあたります。

 備前焼の歴史は5世紀前半頃に日本に入ってきた須恵器生産に始まります。その後全国に広がった須恵器生産が長く続きますが、政治的、社会的変化の中で、他の生産地では12世紀前半頃から徐々に陶器や炻器を焼き始めます。しかし、備前焼が炻器生産に転換し飛躍を始めるのは少し遅れ、14世紀に入ってからです。

 今ではいろいろな種類のものが作られていますが、生産を始めたころは、ほとんどが壺、甕、擂鉢でした。それでも風合いや形のみならず、水甕は中からわずかに滲み出す水の気化熱で表面が冷やされ、中の水温が上がりにくいことから、「備前の水甕は水が腐らない」と言われ、擂鉢は焼きが硬く、使い込んでも擂り目が減りにくいことから、「備前の擂鉢、投げても壊れん」といった評判が立ち、またたく間に沖縄から関東まで販路を広げていきました。そのような製品の優秀さで、京都や大阪では他の生産地の製品を圧倒するシェアを誇っていたそうです。

 松末栄松遺跡から出土した備前焼の甕と擂鉢は、器形の特徴から15世紀後半頃に作られたものと判断しました。

 ここ松山で生活をしていた人々も、「備前焼は丈夫で使い勝手がええぞなぁ!」と言いながら使っていたのかもしれませんね。                   (S)

       松山市 松末栄松遺跡出土の備前焼大甕(上)と擂鉢(下)   

 

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