東垣生八反地遺跡6次調査は、松山市が実施する(仮称)松山市新垣生学校給食共同調理場整備事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査です。調査地は松山市東垣生町651番外にあり、調査面積は約2,088㎡です。調査は令和2年2月3日(月)より開始し、同年8月7日(金)に終了しました。
調査地が所在する東垣生町周辺では、平成26年度から28年度にかけて、松山外環状道路(空港線)整備に伴う発掘調査が公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センターと公益財団法人松山市文化・スポーツ振興財団埋蔵文化財センターにより実施され、平安時代から鎌倉時代の集落址や室町時代の水田址などが発見されています。このうち、集落址は鎌倉時代、13世紀代の建物址や土坑のほかに土壙墓や井戸址などが見つかっています。
今回の調査では、平安時代から室町時代までの遺構や遺物を確認しました。まず、平安時代では11世紀前半頃と考えられる長径1.0m、短径0.60m、深さ20㎝を測る楕円形状の土坑(どこう)が見つかり、土坑内からは完形品を含む土師器の坏や皿のほか、黒色土器の椀などが出土しました。さらに、12世紀前半頃では土坑4基が見つかり、前述の土坑と同様、完形品を含む数多くの土器が出土しています。また、鎌倉時代前期、13世紀前半には掘立柱建物2棟が検出され、建物を構成する柱穴内には柱材の一部が遺存していました。このほか、建物と同時期と考えられる井戸址2基が見つかっています。井戸址は直径約3m、深さ1.0mの穴を掘り、さらには底面を方形状に50㎝余り掘り下げており、その部分に木杭と板材を使用した井戸枠の一部が残っていました。
これらの結果より、平安時代後期から鎌倉時代、11世紀後半から13世紀代にかけて、調査地や近隣地域には居住に関連する遺跡の存在が明らかになりました。
一方、室町時代では水田址を発見しました。水田址からは、畦畔や溝のほかに人や牛の足跡を検出しました。外環状線の調査においても同時期の水田址や畠址が見つかっており、東垣生町一帯は当時、農村集落が広範囲に展開していたことが分かりました。水田址はこれまでに実施した数多くの調査で発見されていますがが、残念ながら水田の規模や形状等は分かっていませんでした。ところが、今回の調査では、幅3mを測る規模の大きな畦畔が見つかり、この畦畔で区画された水田を確認することができました。畦畔は碁盤の目のように配置され、その形状から当時の水田は長方形をなしており、規模は長さ15m以上、幅10m以上、面積150㎡以上であることが分かりました。
調査開始時には、発掘調査の成果を報告する現地説明会を開催する予定でしたが、コロナウイルスの影響により中止せざるを得なくなりました。そこで、ブログのほかに、現在は松山市考古館ロビーにて出土品や写真の展示を行い、市民の皆様へ情報提供を行っています。