常滑焼・渥美焼のこと(その1)

投稿者: sekifu in 出土物整理 | コメントを残す

 みなさんは「常滑(とこなめ)焼・渥美(あつみ)焼」ってご存知ですか?
 ”よく知っている”、”名前だけは聞いたことがある”、”初めて耳にした”など、いろいろな方がいらっしゃると思います。
 今回はその常滑焼・渥美焼について少しお話をさせていただきます。なぜかと言うと、一昨年の冬に調査をした北条河野地区の別府遺跡で出土した土器や陶磁器の中にわずかですが混じっていて、今それらの整理をしているので、これまでに勉強したことや解ったことについて、みなさんにお伝えしたいと思ったからです。

 まず、常滑焼・渥美焼がどのような焼物かということについて少しお話します。これらは備前焼や信楽焼などと同じ、「炻器(せっき)」「焼締め」などと呼ばれる陶器です。表面の色は鉄分を多く含むことから褐色で、本遺跡から出土したものの中にも、黒っぽい鉄分が斑点のようにたくさん浮き出たものが見受けられます。

 常滑焼は現在の愛知県の知多半島で、渥美焼は東側の渥美半島で焼かれていました。地元では知多半島で焼かれたものを「常滑焼」、渥美半島のものを「渥美焼」と呼んでいます。

 常滑焼・渥美焼の歴史を見ると、尾張地方で始まった「猿投(さなげ)窯」が元になっています。猿投窯では、8世紀代に燃料の薪などの灰が溶けて降りかかる自然の釉(うわぐすり)を人為的にかかりやすくする方法が編み出され、原始的な灰釉陶器という焼物を作り始めました。9世紀の初めには焼く前に釉を刷毛で塗るという方法が編み出され、9世紀半ば以降には岐阜県や静岡県でも同様の窯での生産が始まります。10世紀に入ると、猿投窯そのものが周辺に拡散をはじめ、瀬戸物として有名な「瀬戸焼」の源流となる窯もその頃に築かれました。

 その流れのひとつとして、知多半島や渥美半島でも陶器の生産が始まりました。常滑焼は知多半島に展開し、近世以降も生産され続けています。このうち12世紀初め(平安時代終わり頃)から16世紀に生産されたものを「中世常滑窯」と呼ぶこともあります。渥美焼の生産が開始されたのは常滑焼とほぼ同じですが、13世紀末(鎌倉時代)には途絶えてしまいます。

 常滑焼と渥美焼は一見同じように見えますが、細かく見ると形や厚みのほか模様の付け方なども少し違っているようで、専門に研究している方に見せると、小さな破片でも見分けていただけます。

 渥美焼は早い時期に生産が途絶えてしまいますが、常滑焼は17世紀以降、窯の構造や燃料、生産する品物の種類などに変化を加えながらも、現在まで続いています。

 

常滑焼の甕

  この写真は常滑焼の甕で、愛知県陶磁美術館のご協力と許可を得て掲載しています。

 

 

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