前回、風早郡の場所について簡単にお話ししましたので、今回は調査を行った別府遺跡のことや、遺跡がある河野地区、河野氏の歴史について触れてみたいと思います。
調査した中で、現時点では時代のはっきりしない遺構などもありますが、土器や陶磁器といった、時期を特定できる出土遺物もあります。
今回の調査で出土した遺物のほとんどは平安時代の終わりから鎌倉時代が始まったばかり(12世紀前半~末)のころのものです。
地元産の土器や国内産の陶器と一緒に、当時としては手に入りにくい中国産の青磁・白磁といった磁器もたくさん出土しました。
都から遠く離れた風早郡に、どうしてこんなに貴重な磁器がもたらされたのでしょう。
それは、この地が中世伊予の豪族“河野氏”の本貫地(ほんがんち:発祥の地)だということです。
河野氏は古代から続く越智氏の流れをくむ一族だと言われ、史料の中でも時々、「河野○○」ではなく「越智○○」といった名前で出てくる人物もいます。しかし現時点で越智氏とのつながりを直接示す史料は無く、実際にははっきりしないようです。
12世紀代の河野氏というと、河野通清(みちきよ)、通信(みちのぶ)親子の時代になります。
通清の父親は親清(ちかきよ)といい、源氏嫡流(ちゃくりゅう:本家を継ぐ家系)の四男で、跡継ぎがいない河野家が養子に迎えたといわれています。
この親清にも子供がなく、妻が神社に詣でると、守り神である大蛇と通じて通清が生まれたといわれています。何か実際に起こったことの比喩(ひゆ:たとえ)かもしれませんが、現実の出来事ではありません。
このような記事や物語りなどについては、他の史料を使って証明できなかったり、非現実的であったりすることなどから、歴史的事実としての信頼性に欠けるものと言わざるを得ません。
ただ、通清、通信の時代、とりわけ鎌倉幕府成立の前夜以降になると、河野氏以外の立場で書かれた史料と突き合わせのできる事跡(じせき:出来事)も多くあり、それらについては信憑性が高いと考えてもいいでしょう。
これらのことから、今回の調査で出土した遺物は通清の若いころから晩年(通信の幼少期から壮年期)にかけてのものが中心なので、歴史の中でかなり輪郭がはっきりし始めた豪族“河野氏”に関わりの深いものと言えるでしょう。
河野通清供養塔
この供養塔は、風早郡と和気郡の境の斎灘に張り出す尾根先端付近にあり、敷地内には「郡境」、「関所跡」といった石柱も立っています。