当センターが平成29・30年度にわたり松山市北条河野地区で遺跡発掘調査を行ってきたことは、現地説明会やホームページでお伝えしてきました。
これからその報告書作りが始まりますが、勉強したことや分かってきたことを、少しずつ支障のない範囲でお知らせしていこうと思っています。
まずは、松山市北条地域について見てみたいと思います。
この地域は、昔は「風早郡」と呼ばれていて、かなり古くから史料には登場しますが、なぜ“風早”というのかはよくわかっていません。
風が強いからという説もありますが、気象資料からは特別に強いということは言えないそうです。
もっとも、夏場から秋・冬を通り越して春先まで調査をした経験から言いますと、特に冬場は海風もさることながら、高縄山から吹き降ろす風は確かに強かったです。そのあたりが松山平野とは少し違うように感じました。
それはさておき、風早郡は周りを野間郡(北)、越智郡(西)、温泉郡(南東)、和気郡(南)に囲まれ、さらに風早郡内は5つの郷に分かれていました。
郷は南から粟井郷・河野郷・高田郷・難波郷・那賀郷と呼ばれていました。このうちの粟井郷・河野郷・難波郷は、現在でも地区の名前として残っていますので、みなさんお分りかと思います。
高田郷は河野郷と難波郷に挟まれたところで、ほぼ現在の正岡地区にあたり、那賀郷は立岩川を少し遡った山間部の旧立岩村辺りになります。
別府遺跡がある河野郷は、大きくは河野川と高山川によって作られた、高縄山西麓の中位・低位の砂礫台地とそれを開析して斎灘に流れ下る扇状地に分けることができます。
調査は、まさに高山川による扇状地が始まろうとする扇頂部付近で行いました。ここは、尾根状に残った低位砂礫台地の南側裾部にあたる場所でもあります。
その結果、後世の高山川の氾濫による破壊を免れた部分から、貴重な遺構や遺物を見つけることができました。
そしてそれらは、次回以降お話しする予定の河野氏と深い関係を持つものだと考えています。
西より高縄山を仰ぐ