松山城三之丸跡20次調査の確認調査を平成29年11月から平成30年1月の間実施しました。
調査では、地下約3mで江戸時代に造られた馬場土手や溝を確認しました。また、明治3年に焼けた三之丸御殿のものと考えられる陶磁器や瓦などが、黒色土から出土しました。
①馬場土手
土手は二つ見つかり、土手1は長さ9.3 m、幅0.8 ~ 1.8 m、高さ11 ~ 31㎝、土手2 は長さ1.7 m、幅0.8 ~ 1.0 m、高さ14 ~ 16㎝で黄色粘土質の土を積んで造られていました。
②溝
溝の埋められる前は、東西方向(東西溝)と南北方向(南北溝)に屈曲して延びていました。
東西溝は、石を組んで造られていました。長さ8.6 m、幅0.9 ~ 2.3 m、深さ25~ 35cm。
南北溝は、西側が馬場土手に接していました。検出長9.3 m、幅1.1 ~ 1.3 m、深さ23 ~ 30cm。
③黒色土
炭に混じり、陶磁器や瓦などが30 箱(20ℓ箱)程出土しました。これらの遺物は御殿で使われていた可能性が高く、御殿焼失後に地形の低い当地に埋められたものと考えられます。
黒色土 の出土品
食膳具(碗・皿・猪口)、調理具(擂鉢)などが多くあり、土人形、貨幣(「寛永通宝」)、 キセル、焼塩壺なども出土しました。碗・皿などの陶磁器には、砥部焼や肥前(佐賀県・長崎県)地方、瀬戸(愛知県)地方の焼物などがありました。
〔今回の調査でわかったこと〕
18次調査や19次調査で見つかった馬場土手や土手横にある溝が見つかりました。19次調査から延びる馬場土手はクランク状に屈曲し南向きに開口していたことがわかりました。馬場土手横を並走する溝は幕末以前には馬場の出入口で屈曲し、東へ延びており、幕末には埋められていたことがわかりました。また、この東西溝は、江戸時代初期の馬場が造られていない頃には、直進して西の土塁に向けて延びていたこともわかり、三之丸跡の馬場出入口の様相を確認することができました。