「祝谷9号墳の発掘調査成果」・「報告書刊行遺跡の成果」・「遺物の保存」
先日の9月9日(土)13:30~15:30の間、遺跡の報告会が開催されました。
当日は、聴講の方々もたくさんおいで頂き、熱心な考古学ファンで考古館2階の講堂もわいておりました。おいで頂きありがとうございました。
さて、今回は愛媛県でも例のない葺石が施された前方後円墳「祝谷9号墳」の発掘成果が聞けると、おいで頂いた方もおられるかと思います。
報告会の内容は、
祝谷大地ヶ田遺跡5~7次調査について
2.H28年度報告書刊行遺跡の成果について
(辻遺跡5次調査、辻町遺跡3次調査、朝美辻遺跡1次調査、朝美辻遺跡2次調査)
3.遺物保存について
以上盛りだくさんの内容でした。
以下、今回の報告をダイジェストでお伝えいたします。
もっとも注目度の高い、祝谷大地ヶ田遺跡5~7次調査の概要と6次調査で見つかった「祝谷9号墳」について報告されました。
大地ヶ田遺跡5次調査では、弥生時代の土坑36基、古墳時代と江戸時代の溝をそれぞれ1条など検出し、それらに伴う遺物もたくさん出土しています。
平成24年度・25年度に行った3次・4次調査でも、古墳を3基検出したほか、弥生時代の土坑約120基(3次:37基、4次:82基)、溝9条(3次:1条、4次:8条)などを検出しています。
祝谷大地ヶ田7次調査では弥生時代の土坑約60基、溝1条、古墳の周壕かと推定できる溝1条などを検出しました。
調査区の北端はその北側を東から西に向かって流れ下る谷川に向かって急斜面になっています。非常に狭い範囲で、なおかつ深いので、危険防止のため、掘り下げも控えめにせざるを得ませんでしたが、結構浅いところからも土器や石器類が多く出土し、一番深いところからは柄杓などの木製品も出ています。
祝谷大地ヶ田6次調査では、多数の弥生時代の土坑185基と、古墳時代では前方後円墳1基(祝谷9号墳)と古墳の周壕と思われる溝の一部が見つかりました。
この祝谷9号は、全長31.5m、後円部最大幅26.5m、前方部長7.7mの前方後円墳です。古墳を巡る周溝には内外面共に葺き石が見られ、非常に珍しい古墳の調査となりました。おそらく愛媛県内でも初例ではないでしょうか。ただ、残念なことに後世の開発で古墳の上部施設はすでに失われ、古墳の基底面と古墳を巡る周壕のみ残っていました。
●壕の深さの差
この2か所の壕底の標高は約1.3mもあるので、もともと水の溜まるような壕ではなかった可能性が高いと思います。深さが違うのは、浅い方つまり斜面の下側の方が千数百年の間により多く地面が削られてしまった結果と考えることもできますが、端から浅く作られていた… ということも考えておく必要があるのではないかと思っています。
●葺き石の断面
白線は葺石を葺くために整えた地面赤丸はその地面にしっかりとくっ付いた石で、間の石は地面との間に土を入れ込みながら積み上げたものです。なぜそのようにしたかは分かりませんが、
・同じ大きさの石ばかりを準備できたわけではない。
・全部が地面にくっ付くように積むと“滑り”などの不具合が生じる可能性があるのではないか。
・ところどころに大きい石を咬ませることで、上に積んだ石の重力を分散させる効果があるのではないかと思われます。
●環頭大刀柄頭の出土
発掘現場で取り上げた後、顕微鏡を覗きながら錆落としを行いました。今日までに片面の錆落としをするのがやっとでした。
下の長方形部分は大刀の柄に差し込む茎子なので、金メッキは施してありません。錆落とし面の茎子の下の方には、柄に固定する目釘を打つための穴が見えています。
環頭太刀柄頭は周壕から出土しました。周濠の深さは、いちばん深いところで約1mです。出土したのが上から25㎝のところからなので、周壕が約70㎝ほど埋まった段階で、この柄頭が流れ込んだようです。
もちろん、墳丘側はまだまだ高かったでしょうが、本来の周壕外壁側の上端がどのくらい高かったのかは不明です。
松山市の西部、ちょうど埋蔵文化財センターがある南江戸・斎院町の北東である、朝美・辻地域をまとめた報告書が昨年度末に刊行されました。
今回はその報告書に掲載された遺跡の成果概要を報告しました。
報告遺跡は以下の通りでした。
・辻遺跡5 次調査
・辻町遺跡3 次調査
・朝美辻遺跡1 次調査
・朝美辻遺跡2 次調査
●遺跡の位置
この朝美・辻地域というのは、行政的には「朝美」と「辻町」と呼ばれています。
現在では南江戸地区の中に入ってしまいますが、朝美地区の南には旧字名で「辻」と言うところがあります。遺跡名で「辻●●遺跡」といえば南江戸地区の遺跡も含まれることになります。
●辻遺跡5次調査
1.弥生時代:調査区のほぼ全域において堆積している第Ⅲ層包含層は、弥生土器・土師器・須恵器などを包含する弥生時代から古墳時代にかけての堆積層であることが確認できました。また、明確な弥生時代の遺構は見つかりませんでしたが、第Ⅲ層や遺構内から中期から後期にかけての土器や石鏃などが出土していることから、大峰ケ台遺跡4次調査などで検出した山頂付近の弥生時代中期頃の竪穴建物群が調査地周辺にまで及んでいたことを示すものと考えられます。
2.古墳時代:掘立1の西側は東側に比べて深く掘られており、建物を傾斜部に建てる時に掘立柱建物の基底面の比高差を無くした円形に掘られた柱穴で構成され、丘陵斜面での建築方法の一端が分かりました。
3.近世以降:SK1から並んで出土した棟端飾瓦は、その出土状況から意図的に埋納されたものと考えられます。また、瓦自体が重厚で模様などが施されていることなどから、神社の屋根に葺かれたものと考えられ、同じ丘陵上南約60mには江戸時代後期に建立された山内神社があり、この神社との関連が考えられます。
●辻町遺跡3次調査
・今回の調査により、弥生時代、古墳時代、中世にまたがる遺跡の存在が明らかになりました。
・弥生時代の遺構が見つかったことから、周辺に同時代の集落が存在していたことがわかりました。
・古墳時代の炭・焼土は、1次調査の祭祀遺構に関連するものと考えられ、2次調査でも祭祀遺構の周辺に炭・焼土を数ヵ所伴っており、祭祀行為に火を使用したことが想定されます。
また、同時期の水田が見つかったことから、農耕に纏わる祭祀の可能性も考えられます。
・調査地西方の古照地区では数多くの発掘調査により、中世村落の様相が解明されつつありますが、本調査で農耕地や集落跡が見つかったことから、中世村落がさらに東にも分布していたことがわかりました。
・2区では中世の井戸遺構が見つかっています。井戸の上部から種子が3 点と裏込め土の中には完形の瓦器椀や木箸が置かれ、曲物の中からは木錘(もくすい)が2 個体出土しました。
左の写真は井戸枠の中から出土した木錘(もくすい)、木製のおもりです。
今ではもうほとんど使われていないかも知れませんが、ムシロなどのわら細工をする際の網台とともに網縄を結んで、たいてい2個セットで使うおもりになります。中世から余り形は変わっていないようですね。こんなものからでも中世の暮らしが伺えるようです。
●朝美辻遺跡1次調査
・弥生時代から古代にまたがる遺跡の存在が明らかになりました。
・特に自然流路が見つかったことから、大峰ケ台東麓斜面に存在した古墳時代後期倉庫群の様相が分かってきました。
・流路内から遺存状態の良好な木製品出土、建築部材である『蹴放し』は使用痕跡から片開きの扉に用いられたことのわかる貴重な資料。倉庫群などに使用された可能性がある。
・包含層から松山平野でも出土例が少ない陰刻花文の須恵器碗が出土していいます。
そのほかにも自然流路から「木錘」も出土しています。 色が黒くなっているのは、保存処理を施したばかりで、ポリエチレングリコールという樹脂が木製品を黒くしています。辻町遺跡3次調査でも、中世の井戸のなかから、この木錘が出土しています。 この木製品自体は古墳時代から中世、そして昭和までずっと使われ続けてきた道具と言うことになりますね。
●朝美辻遺跡2次調査
大峰ケ台丘陵東麓斜面の標高約19mに立地します。西隣には環状線道路建設に伴って行われた「大峰ケ台Ⅲ遺跡」があり、ここでは6世紀前半の倉庫群が見つかっています。
1.今回の調査では、西に隣接する「大峰ケ台Ⅱ遺跡」に比べ調査は小規模ですが、遺構の密度は高く、主に古墳時代~飛鳥時代(5 世紀後半~ 7 世紀初め)の溝や柱穴、そして掘立柱建物の一部を確認しました。
2.見つかった遺構の中でも特に多くの溝が確認され、計16条を数えます。
これらの溝は大峰ケ台東麓丘陵斜面にそって直線的に走る溝とそして少数ですが半円状に短い弧を描く溝が見つかりました。
溝は概ね5世紀後半~7世紀前半(古墳時代中頃~飛鳥時代)の遺物が出土しています。
直線的な溝は隣接する「大峰ケ台Ⅱ遺跡」にもいくつか見られ、方向性がほぼ一致することから関連性が考えられます。また、弧を描く半円状の溝は、2条検出されていますが、近隣の遺跡の「辻町遺跡」や「大峰ケ台Ⅱ遺跡」などでも見つかっており、これらの調査では古墳の周溝である可能性が指摘されています。
3.調査区の北部には掘立柱建物の一部が見つかっています。
ここからは、建物の柱穴から6世紀前半の須恵器の坏身が見つかっており、隣接する「大峰ケ台Ⅱ遺跡」の倉庫群と時期的に一致することから、これら倉庫群の一部が見つかったと考えられます。倉庫群の範囲は、本調査区では北部のみで見つかっていることから、現時点では6世紀前半の倉庫群の範囲はこの遺跡の北部までと想定されます。
4.調査地全域から弥生土器片が出土することから、調査地西の大峰ケ台丘陵東麓上に営まれる弥生集落の存在が窺われます。
この調査では、古墳時代中頃から飛鳥時代までの遺構・遺物が見つかり、西に接する「大峰ケ台Ⅱ遺跡」で確認された倉庫群がさらに東側へ広がることがわかり、大峰ケ台東麓側での古墳時代後期集落の分布を再確認することができました。
Ⅰ 保存処理とは 出土遺物を恒久的に保存、保管するために、腐食などの劣化、風化による破損や崩壊を防ぐ(出土時の形状の維持)ための科学的な処理、強化処理を施すことをいいます。
Ⅱ 遺物の保存
1 木製品の保存処理
(1)保存処理の工程
①処理前記録・調査(写真撮影・図面取り・樹種同定等)
②遺物の保護
③樹脂含侵
④取り出し・含侵後の記録 樹脂含侵の方法
埋蔵文化財センターではPEG(ポリエチレングリコール)含侵法で処理を行っています。この方法は、木製品中の水分とポリエチレングリコール樹脂を強制的に入れ替えます。まず、20%の樹脂水溶液に木器を浸し、漸次、濃度をたかめていき、最終段階では100%の濃度になり保存処理は完了となります。この樹脂は常温では固形を呈し(融点55℃)、水に溶ける性質を持っています。保存処理された木製品は、形を変えることなく通常の環境での展示や保管ができるようになります。
まとめ
(1)文化財の保存も、食品の保存も、現状を維持し、より長く保存したいという点では似ている。
・文化財‥形・色など食品‥特に味
(2)科学分析を行う事で、出土遺物の材質・構造・製作過程などが詳しく分かるようになり、出土遺物に適した保存処理を行えるようになった。また、これらの積み重ねにより、保存処理技術も進歩している。
(3)遺跡の発掘調査においても可能な限り科学分析などを用いて、遺構の性格を解明し、より充実した発掘調査としたい。