平成元年4月から筆者は考古学専攻の学部2回生に進級した大学生でした。その年の6月、初めて古墳の発掘調査に作業員として参加する機会に恵まれました。筆者に白羽の矢を立ててくれたのはA調査員。筆者が少しでも考古学の学習を発掘調査でできるようにとの配慮から指名してくれたことを、今も鮮明に覚えています。
さて、古墳が発見されたのは雑木に覆われた標高70mの丘陵突端で、古墳に至る道は勿論付いていません。別の調査員が偶然古墳と思われる考古資料を発見したことを受けて、急遽A調査員を調査主任としたチームが編成され緊急調査されることになりました。
それから筆者は朝5時に起きて3合の米を電気炊飯器で炊きあげ、そのうち2合を大きく深い半透明のタッパーに詰めてその上にオカズ1品を置いた“男子弁当”と水筒を入れたデイパックを背負い、足にA調査員から譲り受けた安全靴を履いて現場に向かう日々がおよそ1ヶ月続きました。丘陵突端の遥か下に設置された小さなプレハブ事務所に集合し、朝礼に続き、デイパックを背負ったまま、測量機材や発掘道具等を分担し担いでみんなで朝の登山です。この時にすでに汗が猛烈に吹き出し、一仕事終えたような錯覚に陥り困りました。
発掘が始まるとなんと約1ヶ月間雨らしい雨は降らず、朝早くから夜遅くまで記録保存のための調査は続きました。たとえ下界が降っていても丘陵突端だけは雨が降らないという不思議な体験もありました。調査では墳丘の構造を知るために設定されたトレンチの壁面を削り上げて土層分類と土層図作成を教えていただきながら行いました。勿論その途中には多くの汗をかき、土層の線引きで間違えては怒られ、恥もかきながらの作業でした。昼前には発掘場所の土の乾燥を防ぐためにみんなで大きなブルーシートを広げて掛けることが恒例となりました。昼食時間は下山せずに木陰の涼しいところでアッという間に弁当を平らげ、その後は横になり体力の回復を図り、午後からの調査に備えました。
急遽調査を指揮されたA調査員の踏ん張りとそれをサポートされた多くの調査員の団結で、この朝日谷2号墳は3世紀後半の稀有な前方後円墳であることを確認するに至りました。全長25mあまりのとても小さい規模の古墳でありながら、長大な舟底形刳り抜き木棺痕跡からは中国鏡2面、鉄刀1振、鉄槍先5点、鉄鏃・銅鏃66点などの豊富な副葬品が出土し、古墳の時期を決定付ける土器が確認されたことで、調査当時、この発掘調査の成果は全国的に注目されるになりました。
瀬戸内の古期前方後円墳に収められた豊富な副葬品の全容が完全に残されていたことが評価され、平成21年2月には副葬品一式が松山市の指定有形文化財(考古資料)に指定されます。これにより“まつやまの宝”との評価も受け、朝日谷2号墳はさらに注目されました。その3年後の11月、筆者は松山市考古館で特別展を担当する機会に恵まれます。西瀬戸内の古期前方後円墳を集成し、その形と規模、埋葬施設と副葬品、さらに墳丘上飲食儀礼で使われた土器などを比較する展示会で、伊予の古期前方後円墳のひとつとして勿論朝日谷2号墳の資料もご覧いただきました。
朝日谷2号墳に副葬された中国鏡のうち、大きい後漢鏡には多くの漢字を配した銘文があります。銘文の最後には「………両親は長生きし、楽しいことがたくさん待っている」という意が漢字で表現されています。鏡を入手した朝日谷2号墳の首長はきっとこの銘文の意味を理解していたと筆者は信じていますが、皆様はどのように思われますか? 松山市考古館受付では、朝日谷2号墳を含む50遺跡の発掘成果をまとめた書籍『発掘・松山の遺跡』が好評発売中です。この機会に是非ご購入いただき、史跡松山城跡をはじめ、松山を代表する遺跡について理解を深めていただければ幸いです……。