播磨塚の名は『播磨国風土記』・『古事記』・『日本書紀』に記載されている来目部(くめべの:久米部)小楯(おだて)の墓がこの地に造られたという伝承に由来しています。微高地上にはかつて20 数基の古墳が存在していたといわれ、古くから播磨塚と呼ばれていました。
墳丘
古墳時代後期の前方後円墳で、2段築成の古墳でした。前方部西側のテラス状方形区画や墳丘には、円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪・家形埴輪・動物形埴輪などが立てられ、くびれ部には須恵器の大甕などが並べられていました。
埋葬施設
2基の石室(埋葬施設)をもち、1号石室は墳丘の築造と同時に後円部に設けた横穴式石室で、少なくとも2度の埋葬が行われていました。副葬品には須恵器のほかに金銀製の耳環・刀子の飾り金具・金銅製の馬具など豪華なものが出土しています。2号石室は1号石室構築後に設けられた小型の竪穴式石室で、墳丘主軸に直交して設けられていることや副葬品などから、1号石室に埋葬された被葬者の近親者と考えられます。