小野地区の丘陵部には、主に7~8世紀代の須恵器を焼いた窯跡が10数基(松山平野東部古窯址群)確認されています。久米地域などの発掘調査からは、これらの窯から久米などの集落へ須恵器が運ばれていることなどがわかってきています。
10 駄場姥ヶ壊窯跡(だばうばかたにかまあと)
昭和56年、山の斜面から多量の須恵器が出土したことから、松山では初めてとなる窯跡の発掘調査が行われました。1号窯全体の長さは約7.7mで、窯本体と、窯の“ゴミ捨て場”である灰原も調査しました。灰原からは炭などのほかに、焼けひずんだ須恵器が600点以上も発見されました。この窯で焼かれた器は、来住町から南久米町にかけて広がる久米官衙遺跡群に運ばれ、飛鳥時代の役所で使われたことがわかっています。
11 潮見山南窯跡(しおみやまみなみかまあと)
潮見山の南斜面では、以前から須恵器が出土し、窯が存在するのではと推測されていました。そこで、平成23年に確認調査を行ったところ、この窯で焼かれた須恵器は6世紀後半のものであること がわかりました。約300m離れた葉佐池古墳に埋葬された須恵器と同じ時期の須恵器が焼かれていることから注目される窯跡です。
12 悪社谷窯跡(あくしゃだにかまあと)
枝朶下池に注ぐ悪社川上流の両岸には、8世紀前半の須恵器が出土する窯跡が3基以上あることが知られています。平成11年に北梅本悪社谷遺跡2次調査として発掘調査を行い、1号窯の灰原付近で須恵器が出土しています。
13 枝朶下池窯跡(しだのしたいけかまあと)
枝朶下池のほとりに6世紀後半と8世紀前半の2時期にわたる窯跡が存在しています。南に向いて開ける谷部に窯が築かれていたものと推定されます。
14 茨谷窯跡(ばらだにかまあと)
茨谷上池・下池の付近では、須恵器が採取され、窯跡として以前から知られています。この窯跡からは7世紀前半の須恵器が出土しています。